いじめについて考える

程度の大小はあるだろうが、いじめを体験したり、いじめに合うことはないにせよ目にすることは一生のうち何回かはあるだろう。
それは学校かもしれないし職場かもしれない。

いじめにあった時にはもちろん被害者はかなりつらい経験をし、トラウマになることだって少なくはないのだが、大人になってこういったことを考えてみるといじめる側はかなりバックグラウンドに問題を抱えていることが多い。

そして本当にいじめることで楽しんでいる人間性の無い人以外では、自分のうっぷんをはらす為であったり、自分が不幸なので更に他でもっと不幸なものを作り自分が少し幸せな気分になる為、というケ-スが以外に多いように思う。

いじめはどんな場所でもどんな年齢にでもおこり得ることなので、もしこのような目に巻き込まれてしまったら彼らのバックグラウンドを少しは考えられる余裕を持っておきたい。
が、そろそろ「いじめ」も無駄な時間の浪費という教え方をする人はいないのか。

愛だのやさしさだの、情操的な言い回しでは誰も話を聞いてはくれない。
ましてやいじめをやっている連中は、心を説いても意味は無い。

時間のムダ、人生の汚点、はては刑事告訴で人生を棒に振る恐れ、人間として底辺など強烈な言葉をストレートに放つべきではないのか。
つまり「クズ」への一歩を踏み出す行動が「いじめ」であると知らしめるのである。

誰でもクズにはなりたくないでしょうからね。
それでも止めないヤツには司法の場に立ってもらうしかないだろう。

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